想い出

2013年1月15日 (火)

初雪

成人の日の1月14日、初雪が降りました。初雪というと、風流なイメージがありますが、今年は大雪でした。近くの平塚は積雪なしという情報でしたが、横浜は積雪7センチということで、一晩明けた今朝は一面の雪景色となっていました。

62歳まで人間をやってきて、雪にはどちらかというと「苦い想い出」がいくつかあります。ワースト3をすぐに想い出します。第3位は、15年前の成人式、1998年のことです。当時住まいは大阪で、長女の成人式の日でした。晴れ着を着て写真館で撮影した記憶があります。一生に1回なのに残念、という感情が湧いたことをよく覚えています。
第2位は、33年前にさかのぼります。富士宮で勤務していた頃のある金曜日。夕方から雪が降ってきました。こんな日は、マージャンにかぎるということで、徹マンを敢行。翌日の朝外に出てみると、足がずぶっと入ってしまう大雪。家まで、車で5分程度の距離でしたが、雪をかきわけかきわけ坂道発進を繰り返しながらフラフラになって坂を上がり社宅に到着。途中、事故って停まったままになっている車が多数。なんとか社宅に着くも、進めなくなり、社宅のど真ん中に車を置いたまま帰宅。雪が解けてから車の回収に向かったという経験をしました。
ワースト第1位は、「地獄の行軍」です。池袋で、次女のピアノの発表会があった27年ほど前のある日、演奏が終了してさあ帰ろうという段になって、外は大雪。常用している西部池袋線は、運転制限しており、2つ手前の大泉学園までしかいかない。そこで決めたのは家族4人で駅2つ分自宅まで歩くという選択肢。大泉学園から自宅まで、通常でも30分かかるのに、この日は2時間強の雪の行軍となったのです。積雪は40~50センチぐらいあったでしょうか。足がずぶずぶ雪の中に入って歩くこともままならない悪コンデションの行軍です。私は先導役でしたが、雪で道もわからず、2時間以上かかってようやく家に辿り着きました。これが我が家で言ういわゆる「地獄の行軍」です。当時、次女は幼少であったので、相当厳しかったことでしょう。家について、身体をいくら温めても体温がもどってこないと妻が心配していたことを想い出します。

こんなことを想い出しながら、家庭麻雀に興じ雪見酒を楽しむ私にとっては幸せな1日でした。

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2012年8月24日 (金)

ノスタルジー

先週は、ベンチャーズのライブを観に、横浜の市民ホールへ行ってきました。ベンチャーズといっても、往年のメンバーで残っているのは、リーダー格のドン・ウイルソンだけです。ドラムスのメル・テラーは早死にし、ベースのボブ・ボーグルも亡くなりました。リードギターのノーキー・エドワードは年に勝てず随行していません。

スタートは、WalkDon’t Run→パーフィデア→木の葉の子守唄という得意のメドレーでした。聞いていて、やはり若かりしベンチャーズとはやはり違うな、と思いました。皆頑張っているのですが、脂っこい特有のエネルギーは全く感じられません。当たり前ですね。

そんな中、このライブは私がギターをやりはじめた高校時代に私を誘導してくれました。47年前です。クラシックギターを友達から教わっていた私は、中学3年の時に聞いた「ビートルズ」と「ベンチャーズのエレキサウンド」に魅せられました。吉祥寺の楽器屋で、母が嬉しそうな顔をして私にエレキギターを買い与えてくれたのをよく覚えています。全音の青いギターで当時で15000円だったと記憶しています。早速、高校の同級生4名でバンドを組みました。
当時はエレキをやっていることが不良視された時代で、器楽同好会というサークルのメンバーとして、人前で演奏したのは文化祭と予餞会の2回だけでした。ここでメインで練習していたのが、ベンチャーズです。楽器だけの演奏なのですが、音が快くしびれるのか、この時代のバンドはインストラメンタルが普通でした。TVで、エレキ大合戦という素人のバンドの競争番組などをやっていました。
私は、普通のギターの下から4本を使ってベースを弾いていました(今では考えられないことですが・・・)。教室で放課後練習するのですが、見学者が室外に溢れ、ちょっとしたアイドル気分になったものの、生活指導部の先生の教育的指導もちょくちょく受けたものです。私は2年の時は、剣道部に所属していたのですが、3年では、エレキ1本に絞りました。運動より音楽が好きということでしょうか。

レパートリーははっきり覚えていないのですが、「霧のカレリア」と「ラップシテー」「パイプライン」「クルーエルシー」は定番だったように思います。
1年上の上級生のバンドが段違いに上手かった。彼らの得意な「サーフライダー」は今でも私の中にカッコよく焼きついています。

今回のライブは、なぜかこんなノスタルジーを感じさせ昔に戻るのに十分でした。高校時代のいろいろなこと、勉強、恋愛など心の中で想い出が拡大していました。

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2011年8月 7日 (日)

3人の私

夏休みに入り、唯一私が稼働しているのは、T大の秋期の授業プログラムの作成です。当然私がやらなければならないのですが、1日3時間ぐらいはかかっており、相当難物です。完成までには延べ60時間程度の無料労働になりそうです。この作業の中で、「自分史」というアイテムがあります。脱線して、私自身の自己分析をしてしまいました。

今の私は3人目の私という気がしています。1人目の私は、生まれてから高校1年生の1学期まで(0歳から15歳)。特に特長も無く、不器用で運動音痴。コンプレックス十分の少年でした。走るのが遅く、運動会に両親が見に来るのが嫌でしょうがなかった頃の私です。ランドセル、グローブや自転車など、他の学友と比べると安ものを使っていたという貧乏コンプレックスもありました。若干勉強ができたのと、習っていた算盤の上達が早かったぐらいが取り柄でした。

こんな生徒が変わったのが高校1年の時でした。友達の影響で勉強に集中しだしてから、私は目覚めました。成績が勉強量に比例してぐんぐん上がりだしてから、コンプレックスが、「突っ張り」と「傲慢」に変わりました。全校に公表される学力テストは常にNO1であり、当時珍しかったエレキギターを弾いたりして、目立つことに喜びを覚え自己実現と勘違いしてしまった私がいました。この「傲慢」な私は、そのまま会社に就職し、52歳の大病を患うまで続きました。実に37年間、周りに毒を撒き散らしていたやに思います。最近、私の周囲に、才能はあるのですが、自分の能力に自信をもった挙句、「上から目線」で人を見る若者を散見します。その増長度合いと傲慢さはコンプレックスの裏返しで突っ張っていた昔の私を想い出させます。

3人目の私は、52歳から今に至る9年間です。温厚で人の話をよく聴き、昔でしたら怒ったり避けて通ったりする人間をも受け入れる自分がいます。生きていることが幸せと心から感謝の気持ちを感じている自分がいます。多少、苛立ったり、マイナスの感情が湧くことはありますが、鷹揚に構え冷静に対応できる自分がいます。

もちろん、今がもっともストレスが少なく、生きている意味を感じながら日々快適に過ごしています。そんなことにあらためて気がつきました。ひょんなところで脱線し、こんな分析をしていました。

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2009年5月31日 (日)

日本ダービー

5月31日(日)は、日本ダービーが東京競馬場で行われました。雨による不良馬場が影響してか、一番人気が惨敗し、二番人気と四番人気の組み合わせで、馬番連勝で、36.6倍という小波乱の結果になりました。二番人気から、四、五、六番人気へ流すのは私の得意な買い方で、久々に的中しました。優勝した馬は、ロジユニバースという皐月賞で一番人気で惨敗した馬です。距離とコースが変わって、リベンジというよくあるケースだと思います。

ダービーというと、32年前の結婚式を想い出します。5月29日が、我々の結婚記念日で、その日は、ダービーの前日でした。私は、結婚式の新郎という立場ながら、式の当日、出席してくれた仲間に馬券を頼んでいました。枠番連勝3-6、1着クライムカイザー加賀武見、2着トウショウボーイ 配当7.2倍。私は、この馬券を1点張りでとったので今でもよく覚えています。的中したからでしょうか、5月末のダービーになると、32年前を想い出します。

競馬には各レースごとに様々な想い出がありますが、ダービーは特別です。それは、ダービージョッキーと言われたいと願う騎手だけの専売特許ではなく、私にとっても特別なイベントなのです。

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