災い転じて福となす
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世の中のグローバル化が進み、世界の情勢が日々展望できる時代となり、各国リーダーの「リーダーシップ」について言及される機会が増えてきました。首脳会議、国内世論への対応、国会の運営などで、リーダーシップが度々問われています。
「リーダーシップ」はリーダーのものという固定観念がないでしょうか?リーダーでなくてもリーダーシップを感じる人はいるでしょう?「リーダーシップ」はリーダーに必要なものではありますが、リーダーだけのものではありません。個性同様に100人いれば100通りの「リーダーシップ」があるということです。「リーダーシップは最もよく研究されているのに、最もわかっていない分野。」なのです。
そんな現状を理解した上で、私が常々考えているのが、「上」を動かす「下」の力、「強」を動かす「弱」の力、「男」を動かす「女」の力、「夫」を動かす「妻」の力、「親」を動かす「子」の力、「子」を動かす「親」の力などが立派な「リーダーシップ」であるということです。私はこれを「Newリーダーシップ」と名付け、『悩ましい局面に立ち向かい、目標を達成し、理想の世界(自分の心地よい居場所を確保する力)を創り出す力』と定義しました。更にカウンセリング用語に置き換えて「人と人との関わり(コミュニケーションの世界)の中で、自己理解を深め、自らの強みを認識・活用することで、場を動かす力(難局を打開する力)。」
=コミュニケーション力(土台)+強み(○○力)+人間性(スタイル、タイプ分けなど)
=「場を動かす力」と具体化しました。
「コミュニケーション力」は、傾聴力と質問力とほんの少しの伝達力を合わせたもので、リーダーシップのベースになる力です。まずはこれがないと人に影響力を与えることはできません。そして次に、自分の「強み」を考えてみてください。様々な場面で「強み」を知るチャンスはあるのですが、自分の「強み」を意識し、常にそのバージョンアップを図ることが肝要です。そして肝心な場面でこの強みを生かして使うのです。最後は「人間性」です。これは善人悪人という区別ではなく、自分が他の人との比較の中で、どんなタイプに分けられるのか、どんなポジションにいるのか、という自己認識です。相手との相性なども考慮することで効果を発揮します。
「コミュニケーション力」をベースとして、自分の「強み」と「人間性」を意識・理解し、場に応じて的確に使用するという「Newリーダーシップ」で、現在抱えている対人関係における難問に向かいあってください。リーダーシップを認識する→課題の確認→実現したい世界→方策の決定→実施→振り返りという「Newリーダーシップを使ったPDCA」を繰り返してみてください。立ちはだかっている壁を突破できるかもしれませんよ。
以上、6月に予定されている講演の内容を先取り文章化してしまいました。
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日本人3人による青色LEDの発明にノーベル賞が与えらました。
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その日の体調のポイントは朝起きた時にシグナルが出ます。血圧がアンコントロールだった時は、朝の起床時に頭が後ろに引っ張られるような感覚がありました。
今回、朝起きれないという事態が起こりました。立ち上がれないのです。そして、寝返りをすると逆方向にはすぐ戻れない。バランス感覚が全くなくなってしまいました。
生あくびが頻発し、吐き気が強い症状なので、脳の病気を疑いました。しかし、脳梗塞であれば暗算ができなくなるがそれはない。くも膜下出血なら猛烈に頭が痛いはず。それもないし熱もない。そこで、妻の進言に従い、かかりつけの医師を受診しました。
その結果、「良性発作性頭位眩暈症」と診断されました。三半規管の中にあるカルシュームの位置がづれて制御不能になっているのだそうです。医師によると、よくある例だそうです。聞いてみると、妻も娘もこの病気を経験しているようで、「同病相憐れむ」の心境となりました。
命に別条がない病気だからよかったのですが、金曜日に発症したので、勉強会を3つ、イベントを1つ欠席してしまいました。結局、1日寝たきりで、治るまでに丸4日間かかりました。
最近、体調不良がよく出るようになりました。40~60歳の間、命にかかわったあの1つの病気以外は風邪すらもひいたことがなかった私ですが、歳なのでしょう。昨年末は、感染性胃腸炎、今年は風邪と眩暈、致命的な病気でないのが救いです。ちなみに「良性発作性頭位眩暈症」の原因は加齢でしょう、と言われました。歳には勝てません。
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今年も12月に入りました。何かと気ぜわしい年の瀬ですが、私の場合は、例年と違って「グルーミー」な感覚で過ごしています。独立してからというもの、12月は毎年、会社勤めと時とは異なり、冷静に1年を振り返ったり、雑務の整理をしたりと、比較的余裕できていました。しかし、今年は「七転八倒」しています。
12月15日に、CC技能士の1級筆記テストがあるのが大きな理由です。私の場合、水木金の週3日は大学勤務ですので、他のことには使えません。逆に言うと、週4日は自由に使える時間があるはずなのですが、NPOのアライアンス契約の作成・調整・締結だとか、コーチング、メンタルのカウンセリング等、自分で首を突っ込んだがための雑務が多く、思ったように時間の都合がつかないという悲しい現状に直面しています。だったら、試験を放棄すればいいという考えもありますが、性分は変えられません。
そして、その状態に拍車をかけているのが、大学担当講座の学生の課題提出シートの添削です。これが4クラスで280枚あります。12月15日の試験が終わった所からはじめて12月20日と24日に学生に返却するつもりでしたが、日数計算してみると、どうみても約束の時間にできるとは思えない。1枚15分かかるとすると、280枚で4200分。70時間です。1日5時間やったとして14日かかるという計算になります。あてられる日数は、物理的に6日間。これがわかった時は愕然とし、途端に「グルーミー」な気分になってしまいました。こちらを優先すれば、試験勉強ができない。レビンのいう「接近VS接近」という「葛藤」です。
毎年、週2~3回の忘年会が入るのですが、今年は上記の状態がわかり、ほとんど行けなくなってしまいました。勉強会やNPO定例会への出席も断念しました。こんなことが続くとそのうち誘いがこなくなるのでは?と危惧しています。最も残念なのは、孫に会うという爺爺の楽しみを封印せざるを得なくなったということです。幸い、昨年と違って、血圧のコントロールはうまくいっており、体調がいいので無理はききそうです。
こんなその日ぐらしの中、昨日、特定秘密保護法案が参議院でも強行採決されました。私たちの後の世代のことを考えると、暗澹たる気持ちになります。これも「グルーミー」な原因です。
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知人のFACE BOOKへの投稿に影響されて、おもいきり心身ともに緩めてみました。考えてみたら、私の一生でこんなことは初めてかもしれません。全く負担になることは何もしないで、ボケーと1日過ごすのです。企業在職中は長期休みはあったとはいうものの日々何らかのスケジュールや目標を入れていたものです。仕事、遊び、人と会う、家族サービス、自己研鑽、勉強会等々、なにかこの日にやらねばならぬ、ということを自分に課していました。「1日1生」という座右の銘を掲げて。
盆の火曜日から土曜日までの4日間、全く何もしませんでした。外は酷暑が続き、毎日ひっきりなしに熱中症の報道をしています。そんな時は、クーラーの効く部屋にいるのが最高の幸せと決め込みました。
病院でベッドに寝ている時を想い出しました。しかし、その時とは、明らかに違う。周囲の環境も何もかも明らかに違う。一番大きな違いは、病院にいるときは、「病気が治るといいな。」。今回は「病気になったら嫌だな。」です。
座禅や瞑想ができたらいいのですが、結局まねごとに終わってしまいます。ずーっと寝ているのにはまだ身体が反発します。私は4日間何をしていたのでしょうか?
3日間は、三国志三昧でした。録画しておいたCSの三国志73話をHDからDVDにダビングしながら観賞しました。CMの間は、高校野球にスイッチの切り替えです。こうしていると、1日が瞬く間に過ぎてしまいます。1日あれば大概の事はできる、というのが私の自論ですが、世の中でよく言われる「1年は早い」ということが理解できました。
4日目は、CSで映画を2本みました。日本の「四谷怪談」と海外の「ロシアン・ルーレット」です。どちらも、品のいい映画ではありませんね。なかなか強烈で、記憶に残りそうです。
映画もいい。見るビデオも多数ある。本を読むのもいい。今は山崎豊子の「不毛地帯」を読んでいます。産業カウンセラーの新しい教科書に目を通す。今年は1級の技能士を受けるつもり。高校野球も面白い。今年は関東勢が強いので力が入る。ギターのスキル強化。PCの整備=メールや画像の整理。思い浮かんでやりたいことを次から次へやってみました。
完全に仕事をやめると私の場合はこういう生活になるのでしょう。これはこれで楽しいじゃないですか。外に出るときは、私がメモっている「いきたい所」から選んでいけばいい。
「これでいいのか?」という発想が自分を責めた時に「これでいいのだ」と言えればいい。これが言えない人は、力の続く限り、世間が必要とする限り働くということになるのでしょう。それはそれで敬愛しますが、私は違う道を進むような気がします。
秋学期が始まる9月末に、スイッチが切り替われるかがやや心配です。
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最近のマスコミに連日報じられているのが、日本柔道界の暴力問題です。女子選手15名が直訴したパワハラ問題です。
まずは、直訴した15名の選手に拍手を送ります。私は2つの経験を想い出します。1つ目は、私の企業現役時代、「7人の課長」の押印をとって、私が代表となって、パワハラ上司に意見具申したこと。「わかった」と一言言われて、終わりでした。2つ目は、子会社社長の部下に対するパワハラです。部下から人事部に注進があり、社長は更迭されました。後任の社長が私でしたから経緯を聞いて唖然とした記憶があります。
私は、パワハラをストレスという観点からよく捉えます。カナダの生理学者H・セリエ氏は、「ストレスは人生のスパイスである」という名言を残しています。ストレスには、いいストレスと悪いストレスがあるということです。コレステロールに善玉と悪玉があるのと似ています。いいストレスは、ピークに至ると、最大限のパフォーマンスを発揮します。達成感や満足感、自己存在感やレベルアップ感など人が伸びる原動力となっていきます。即ち、適度の緊張感=いいストレスがいい結果をもたらすということです。我が国の原発をはじめとするあっと驚くノー天気な対応は、まさに緊張感が足りないからいいパフォーマンスが得られないということではないでしょうか?
一方、過度の緊張感は、一気にパフォーマンスを落とします。今回の柔道界のパワハラは、選手に過度(→極度)の緊張を与えたのではないでしょうか?指導側は適度の緊張感を与え結果を出そうとしたのでしょうが、今の世の中では通用しないということが証明されました。適度と過度では180度違うということです。テニスのラケットやギターの弦を想像してみてください。適度に張っておかないと性能が発揮できませんが、張りすぎると切れてしまいます。竹やゴムには、遊びがあって、しなったり伸びたりしますが、やりすぎると割れたり切れたりします。そして元には戻りません。
パワハラか、ほど良い緊張感なのかは、個人の判断に委ねられることになりますが、15人からの直訴ということは、外の人間では計り知れない相当の暴挙があったと想像されます。
幹部の辞任や組織改訂もさることながら、最大の解決方法として、コミュニケーションの必要性がクローズアップされるでしょう。選手の話を聴くこと。それができるようになれば、組織も変わるのではないでしょうか?柔道界の幹部に私のコミュニケーションの研修を受けてもらいたいものです。
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正月早々、いやなニュースが飛び込んできました。プロ野球の大リーガーで活躍していたM選手の引退というニュースです。とうとう来たかというのと、スポーツ選手の寿命は怪我しだい=無事是名馬、という2つの想いが頭に浮かびました。
M選手には特別な思い入れがあります。私と同郷の石川県の出身で、甲子園の例の試合も一部始終見ていました。石川のS高校と高知のM高校の試合で、全打席敬遠されたという今や伝説となった試合です。当時の私は正義感が強く黒白をはっきりさせないと気が済まない性格丸出しでしたので、M高校の監督に対しては、「卑怯なり。尋常に勝負しろ。」という想いをずーっと持ち続けていました。この監督はいまだにM高校の監督として甲子園に出場してきます。その姿をみているうちに、最近は、「選択肢に敬遠を考え付いたこと自体が非凡。プロ野球の日本シリーズで完全試合を自ら放棄して勝負に徹したO監督に通じるものがあるかもしれない。」と思うようになりました。また、M選手にとっては、「強打者としての一生の勲章」というプラスのレッテルをもらったことは良かったのではないか、と思うのです。
そんな想いで、ニュースを視ていたところ、M選手の父の言葉が彼を支えていたという話が聞こえてきました。「努力できることが才能である」という言葉です。この言葉を聞いた瞬間、すぐに脳裏に浮かんできたのが、私が担当しているT大の多くの学生でした。T大の学生のよくあるパターンは、「私はこれといった強みがありません。いままで、スポーツもサークル活動も勉強もどれも中途半端で人に誇れる、言えるようなことは何もありません。しかし、1つの物事に一生懸命集中し、継続することだけは自信があります。」というものです。大人でも、こういう人は多いのではないでしょうか?そんな人たちに、M選手の父親の言葉「努力できることが才能である」を贈りたいと思うのです。「努力」という言葉は幅が広く個人差がありますが、1つの目標達成に向かってアクションしているのは、「努力している」ということでしょう。
人は、結果を求めます。結果をほしがります。結果が出なかった場合、極々身近にいる人以外は、そこまでの努力という行為は脇に捨て去られることが多い。しかし、M選手の父が言っているのは、努力できることが強みになる、アイデンテテーになる、と言っているのです。よく、結果は自然についてくるというコメントが聞かれますが、「努力」と「結果」は連続的でもあり、連続的でもない。もっと、底流にある礎となるものと私は理解しました。
学生の就活で最も大事なことは、「自己理解」です。自分はどう見えるのか、自分の特徴はなにか、自分はどこに人との違いがあるのかなど、自分を客観的に知ることが「自己理解」です。そして、その中核をなすのが、自分の強みを肯定的に捉える事です。結果を過剰に意識することなく、努力を続けることはそれだけで大いなる才能なのです。
努力を継続することができる貴方は自信をもっていいのです。才能豊かであるが故に「熱しやすく冷めやすい」タイプにとっては、この部分が弱点になることがあります。好奇心をもち、かつ努力を続ける、そんなスタンスが成功の秘訣になるのではないでしょうか?
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先日何気なくTVを見ていたら、千葉県松戸市が率先して行い効果を出しているという「褒めて伸ばす」という教育の手法を紹介していました。
「私は褒められて育つ」。こんな言葉を入社の挨拶に使った新入社員がいましたが、これは「真理」と私は常々思っています。なかには「私は怒られて育つ」という人はいますが、人はそんなに強いものではありません。他人から褒められた、認められたという承認感、があってはじめて自己肯定感が出てくるものです。実際、私の研修の中では、「いかに相手のいいところをみつけるか」「相手に納得できるようにいかに褒めるか」について、「OKセッション」というグループワークをすることが多い。企業研修、再就職支援セミナー、学生のキャリア授業等々、私は、あらゆるところでこの「OKセッション」を多用します。そして、研修やセミナー、授業の終了後、受講生が喜色満面の顔をして帰っていくのを見て、「褒めて伸ばす」ことの正しさと効果を確認しています。
私のようにカウンセリングの仕事をしていると、自己肯定感の低い人をよく見受けます。「どうせ私なんか・・・」「私は何もできない」など、自虐的な言葉をよく聞きます。カウンセリングしてみると、必ず小さい頃身内のちょっとした一言が傷となって残っていることが多い。例えば、両親のひそひそ話で、「お兄ちゃんはよくできるのに、弟はねー。」とかいう1部分を盗み聞き、「そう。私は兄貴に比べて人間的にレベルが落ちるのだ。」と思い込んでしまう弟がなんと多いことでしょう。親や家族の何気ない言葉が子どもを傷つけているのです。
逆に、褒められると、その資質が大いに伸びます。さらに、噂話で褒め言葉を聞くと、モチベーションは倍増します。「君のことを○○と彼が褒めていたよ」とあなたの尊敬する人の言葉を間接的に聞けば、うれしさ倍増となるでしょう。褒めるのにお金はかかりません。昨年の大学卒業生で、塾の先生になった学生は、キャリア授業で私から「教えるのがうまい」と言われたことが励みになったと言っていました。有名な画家のH氏は新聞紙上で名高い評論家から「おもしろい味がある」と褒めてもらってそれを励みにして輝かしい画業を成したといいます。(11/20 朝日 天声人語)
このように効果の高い「褒めて伸ばす」を教育に利用しない手はありません。人は往々にして悪い所に目がいきがちですが、人を見たらいいところを探す練習をしてみてください。身近なところ、自分の子どもや配偶者に早速試してみてください。そして「褒め言葉」を口に出して伝えてみてください。特に、褒める対象の本人のいないところで、褒め言葉を連発しましょう。そのうち、本人に伝わります。子どもにしろ、配偶者にしろ、その後必ず良い変化が現れ、人間的に伸びていることを確認してください。この状況を手に入れれば貴方自身が幸せになります。
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大学で授業をしていて、向かいの教室で見た光景は異様で信じがたいものでした。終了5分ほど前に数人の生徒が後ろからコソコソと教室に入ってくる。この授業の聴講生は後ろの席に固まって、ほとんどが寝ています。教師は?とそちらに目を向けてみると、下を向いて教科書をひたすら読んでいる。明らかに、見て見ないふりです。奇妙で嫌な光景です。
なぜ、教師は学生を叱らないのでしょう?
こんな例は他にもあります。
その1)私が行った学生のカウンセリングで、「授業をとったけど1回出てやめた。不真面目な学生に注意もしない先生の授業などやってられない。」とコメントされたことがありました。不真面目な学生は真面目な学生の妨げになりますから、教師は叱る、注意すべきなのですが、それをやらない。叱れないのです。
その2)6月初めの私の授業で、5人グループワークと私が言っているのに、6人でワークしているグループがいました。当然、私は叱りました。その叱られた生徒のリアクション・ペーパーには、「先生に叱られました。でもこんなに親身になって叱ってくれる先生はいません。気分は爽やかでした。」。
今年の授業では、意識して怒ったのはここまで4回。内訳は、男2人、女2人です。普段叱られていないのでしょう。もっとも身体の大きなスポーツ系の学生は叱られた直後から授業に来なくなりました。しかし、残りの3人は戻ってきました。ひとことフォローすると「雨降って地固まる」といういい教師と学生の関係になります。
どんな事情があろうと、叱るべきときに毅然と叱ることこそ、教育者、先輩、上司、親として、人として、今必要なことではないでしょうか?
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