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2015年9月

2015年9月 9日 (水)

恩師の訃報

大学時代の恩師M先生の訃報が届きました。95歳、式等すべて身内で済ませ「飛ぶ鳥跡を濁さず」の諺どおりの用意周到のお別れでした。

最後にお会いしたのは数年前のゼミの会食会でした。90を過ぎたのに矍鑠としておられ、頭は相変わらず冴えておられました。

私はMゼミの1期生ということもあり、会社勤めになってからも何かと相談にのっていただき世話になった記憶があります。M先生は人としても教師としても私の憧れでした。私のような腕白坊主をいつも笑顔で心地よく包んでくれました。多くの人を受け容れられる広い心を持ちたい、泰然自若の心など私が常日頃目標として意識していることはM先生から受けた影響が多々あると思っています。私の今日あるのはM先生のお陰です。先生との歴史を振り返るにつけ、嗚咽がこみあげてきました。せめてもの慰みは天寿を全うされたであろうということです。

訃報が書かれた葉書に感動しました。なんと故人の筆蹟で生前の感謝の気持が記されているのです(日だけが後で記入する形になっている)。何というカッコよさでしょう。私は改めて、人の価値は死に方で決まると思ってしまいました。

私もできればこのやり方を模倣しようと心に決め、葉書は宝物として持ち歩くことにしました。Mゼミの何人かは私と同じことを考えたのではないでしょうか?

これが恩師からの最後の教えでした。

先生ありがとうございました!!

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2015年9月 1日 (火)

夏休み

大学の教師という職業は休みが長く、実質稼働は8カ月ということになります。民間企業のそれと比べたら天国と言えます。まして教授ともなると大学から身分を保障され、その休みを有効に使っている先生方が多いように見えます。アルバイトをしたり、研究旅行に行ったり、趣味に勤しんだり、比較的自由な世界を満喫しつつ、自分の基盤を固めていくことができます。

私にとっては、夏休みは待ちに待ったもので、始まる前は、あれをやろう、これをやろうと様々な思索を巡らせるものです。しかし、よく考えてみると、退職後「休みが充実していた。」「悔いはない」「この休み中に○○を達成した」という想いに至ったことはないように思います。
会社勤めの時は、すべての仕事を忘れて短い休みを精いっぱい楽しんだ記憶がありますが、今はそれがないのです。物理的にこなしていかなければならない作業は、大学関係で言うと、春学期レポート採点→成績決定→成績インプット、ここまでで7月25日前後。そのあと9月に入ると、シラバス作成→承認→タイムラインの作成→授業準備という段取りになっています。故に実質自由になる休みは、8月の1カ月という見方もできます。
今回、旅行も「銚子」に行っただけで、この夏はほとんど動いていません。
なぜ、全てを忘れて、心を開放する休みが楽しめないのでしょうか?
私なりに考え、以下、考えられる原因を列挙してみました。
1.私は、何か気になることがあると、とりあえずそれを横に置いておいて、別のことに集中できない傾向がある。
2.加齢のせいで、出不精になった。
3.毎日、何らかの形で仕事関係の質問や課題が入ってくるため、放り出せない。
4.家にいるのが楽しい。TVで映画をみたり、居心地のいい部屋で読書をするこのに至福の喜びを感じる。
5.私は仕事中心人間なのか?それほど仕事好きとは思っていないのですが・・・。
6.同居の娘が臨月に入り、9月からはいざという場面を想定して遠出はできない。
7.今年の夏は、8月初めが酷暑で、その後盆明けは雨の日が多い。「晴耕雨読」をモットーとしている私はその方針に添っている。
8.瞑想や座禅といった「ぼんやり」に最近ハマっている。ガリガリ前に進むことは良しとしない自分がいる。
一番私が危惧しているのは、上記の1と2で、ネガテイブな態勢に自分が陥っていないか、ということです。いや。それならそれでいいかもしれません。
そんなことを思いながら、ここでの結論は、6と7としました。9月1日を迎えこんなことを考えている私がいます。

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